子どもに期待をかけるなら…
娘は子どもの生きたいように生きることを応援されて育ったから
親の期待に応えるのは想像がつかないという。
それは多分、過去のことは上書きされて忘れてるかもなと思うけど^^;
娘から見ると親が子どもに期待を負わせている事が多いそうだ。
☆
映画『ビリギャル』の中で
塾の面談中に保護者が子どものことを
「この子はやればできる子なんです」
って言った時に坪田塾の先生が
「お母さん、それはやめてください」
って言ったのを
娘はずっと引っかかっていたそうだ。
やればできると、やらなかった時に落胆するから
だそうだ。
それってどういうことだろう?
と。
私が思ったのは
子どもが「やればできる」という状態のことを言ったのではなく
「やればできるという親の期待に応える」ことができなかった時に子どもはつらいという事を言ったのではないか。
と話すと娘も納得。
そして
「お母さんからやればできるって期待されたことないから高校行かない選択できたのかも。」
と。
「もし親が期待をかけてきてたら、学校で友達と喋ってた方がいいから学校行ったかも。」
「何かの期待をされてたら、安心して家にいられない。」
と。
娘が無理に学校に行ってたらそれこそ心身を病むと思うので、良かった〜と安堵。
☆
私は子どもに全く期待をかけていないのでもなくて
私が期待するのは
子ども自身が生きたいように生きること。
伸びたいように伸びること。
できるだけ健やかにあってほしい思いもあるので
不健康だなと思うと色々口出したくなるし出してる^^;
でもそれは子どもに強制する姿勢になると
子どもが生きたいように生きることを邪魔しているなと感じるので
強制ではなく提案になる。
☆
子ども自身の望まないことを期待するのは
子どもにとっても負担で
親子の信頼関係が難しくなり
実現してもしなくても親の側も苦しいのではないかと思う。
かといって関心を寄せないで放任なのも
子どもにとって育つのに良い環境ではないかもしれないと思う。
植物が育つのを見守るような関心がちょうどいいなと思っている。
日光や水や養分が適している環境に身を置けるようにすることは親の役割かもしれない。
自然と育っていくのを見るのは喜びだ。
子ども自身が生きたいように生きることを支援する姿勢でいると
子どもと本心からつながりを持て
子どもが生き生きとしていて
親の私がそこから大いなる喜びを得ている。
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そしてまた
子どもに対しての眼差しは
自分自身に対しての眼差しと同じでもある。
社会や周囲の期待に応えて生きることから
自分自身の生きたいように生きることを
私自身がシフトしてきたなと思う。
それは子どもに対してそのように接することで後押しもされたような気がしている。