子どもと愛でつながる幸せな子育て

中学2年生娘と学校に行っていない小学4年生の息子を持つ母の子育てブログです。

【宿題やらないことを罰する。そこからわかる社会の構造と、人類の変化への道】

学校の宿題にまつわる問題で
宿題やらなくて罰を受けるという話を知りびっくり。

うちの場合は罰を受けたことはなく
「こどもが宿題がどうしてもできなくて
宿題できてないから学校休むと言ってます」
と私が担任の先生に電話したら
「宿題やらなくていいから学校に来てください。」
って言われてしばらくは宿題やらずに登校していました。
二人ともそうでした(笑)

だけど、クラスでは宿題やらないことは「罪」である雰囲気はひしひしと伝わり
班で宿題出さない子がいたら連帯責任とかいうのも聞きました。

罪であれば罰を与えるのは当然という考えは自然と浮かぶのだろうなと思います。

しかし
宿題をやらないことは果たして「罪」なのでしょうか??

10歳の不登校YouTuberゆたぼんが
不登校のきっかけが「宿題をやりたくなかった」からだと言ってものすごいバッシングにあっているのを先日の投稿でも書きましたが
宿題をやらない事が「罪」であると
学校教育の中で叩き込まれているから
ゆたぼんに「罰」を与えてもいいという感覚から常軌を逸したように見えるバッシングも起こるのかもしれないと思いました。

学校の教師も自らがそのように育ってきて
罪と罰が身に染み付いているのかもしれませんね…。

教師もまた自分がやらねばならぬ仕事を頑張ってやっていて、
やらないでいたら罰を受けるようで怖いのかもしれませんね。

先日の投稿で書いたように
小中学生に宿題をやらせることは学力を低下させるという研究結果があります。
夏休みの宿題を無くした学校もあるとニュースで読んだりして
少しずつ宿題はなくなる方向にあるのでしょうか。

宿題を出すのは
本当に学力を向上させたい目的だけなのでしょうか?

そうならば逆効果。

なのに続けるのは
他に目的があるからと思えます。

罪と罰

これが他の目的を知る鍵な気がします。

罪とは何でしょうか?

これは罪でこれは罪でない
というのは「判断基準」が必要です。
通常の社会では法律がそれに当たり
各組織では組織の中にある決まりがそれに当たります。

つまり罪とはその組織の判断基準で決まるのです。

その判断基準はどのような原則で決めているのでしょうか?

それぞれの組織で違いがあると思います。

所変わって時代が変われば
同じ行為が英雄にもなれば犯罪者にもなります。

今の公教育の学校の原則は
明治維新の頃から変わっていない
という事を元ソニー役員の天外司郎さんがおっしゃっていました。

富国強兵政策のまま。

戦後の高度経済成長期は
欧米に追いつけ追い越せと
企業の戦士となって働ける人材を育成するのに好都合な教育だったと思います。

個性の尊重というような文言はありますが
それが文言に終わっているように見え
骨組みは変わっていないのだと思います。

現代社会の構造そのもの。

この構造を作っている大きな原則はなにか?
私は最近、自分自身を観る過程でその推測がつきました。

「権威のあるものに従う」
という原則です。

自分自身"以外"のものに従う
とも言えます。

子どもの頃は親や教師や周りの大人に従う。
社会に出れば会社などの組織に従う。
全ての国民は国に従う。

当たり前だと思いますか?

ですよね。
みんなが勝手に行動したら集団生活が立ち行かないと思いますよね?

ですが、ここに鍵があると思うのです。

罪と罰
人を支配してコントロールする為の仕組みと思えます。

社会秩序を維持するため
という名目はありますが

支配されてコントロールされて
ありのままを大事にされない
からこそ
調和が乱れるような行為も生まれるのではないでしょうか?

歴史を観ると
「人類としての精神発達段階」
というものがあるように感じます。

人類として発達してきた現代
罪と罰で秩序を維持することから
ありのままを大事にすることで調和がとれるような段階に入って行けるのではないでしょうか?

罪と罰で秩序を維持する
という枠組み自体が
もう行き詰まっているのを感じています。

テロを無くす為に
テロと戦っていても
全然無くなる気がしない。

犯罪者を捕まえて刑務所で罰しても
再犯率は高い。

麻薬中毒者の再犯が多いのは
その人個人の問題ではないのです。

宿題をやらないことに罰を与えて
何が達成されるというのでしょう?

宿題とテロや犯罪を同列に並べることに疑問があるかもしれませんが
私には同じ構造から発生していると思えます。

「権威のあるものに従う」
という一つの行動プログラムが
罪と罰で支配しコントロールするという構造を作り維持しているのだと思います。

「権威のあるものに従う」
「自分以外の何ものかに従う」

これをやったことない人はいないでしょう。

自分は反抗するから従ってない
と思う人もいるかもしれませんが
「権威に反抗する」ということは権威があるから成り立つのであって
権威から自由になっているのではないのです。

支配の構造
自分以外の何ものかに従うプログラム

これは
支配する側を責めることで解決するものでもありません。

全ての人が共有しているもの
だからです。

だから
誰かのせいではない。
学校のせいでも教師のせいでもない。

全ての人の課題なのです。

このポイントに気づくことから
社会を変えられます。

一人一人から社会が変わります。

「何もののせいにもせず
自分の意思で思考・行動すること。」
このことが
今の社会の諸問題が消える一つの大きなルートだと私は思っています。

そして
自分を責めることは全く必要ない。

責めること自体が
外側の何かに照らし合わせているから発生するからです。

もし
不本意なことを自分がしてきたと思うなら
自分の本心がそこからわかるので
その本心から思考・行動したらいいだけです。

これを書いている私も
まだ同じ構造を共有している一人です。

少しずつ、自分の望む方に歩いている最中です。

きっと
同じようなことに気がついている人もいるでしょう。

気づいていることを言葉にすること
が私のお役目かと思って書いています。

良かったらご一緒に歩きましょう✨

 

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